ダーク ピアニスト
前奏曲12 心の在処



「ねえ、もしも僕が帰らなかったら、ギルは泣くと思う?」
飛行機の中でルビーが訊いた。窓際の席だった。彼は窓に映った自分自身に話し掛けているように見えた。しかし、隣に座っていたフランス人の医師は静かに応えた。
「寂しいって思うのではないかな?」
「それだけ?」
ルビーが問う。窓に映った顔は寂しそうだった。
「夜には多分、悲しみが増すんじゃないかな」
「それだけ?」
さらにルビーは訊く。
「そして朝には、きっとまた、君に会いたくなるんじゃないかと思うよ」

飛行機は東に向かっていた。空は一面のブルー。朝日が煌めいていた。
「でも、ギルは泣かないと思うよ」
窓の淵をそっと指で撫でながらルビーが言った。
「何故そう思うの?」
「だって、ギルはウサギさんが死んでも泣かなかったもの」
「ウサギさんは死んだの?」
「うん。でも、きっとそれは僕のせいなんだ」
ルビーは視線を落として10本の指をでたらめに動かしていた。
「何故?」
男は慎重に訊いた。

「風が吹いたんだ」
ルビーは神妙な顔をして言った。
「風?」
医者が訊くと、ルビーは首を傾け、悲しそうに微笑した。
「だって、エレーゼが死んだんだもの」
「いつ?」
「ずっと昔……。そうでなければ、ずっと未来。でも、ほんとはどっちかわからないの。先生はどう思う?」
医師は首を傾げた。彼が主張している事が真実なのかどうかを測ろうとしているように……。

「ねえ、見て? 僕達、結婚したんだよ」
そう言うと彼は自分の指にはめた指輪を見せた。
「おめでとう……と言ったらいいのかな? それとも……」
「おめでとう。そして、さようなら」
「さようなら?」
「だって、もう彼女はいないもの。言ったでしょう? 彼女は死んだんだって……。殺されたんだ。銃で撃たれて……。可哀想に……。僕がいたのに救えなかった。ほんの少しだけ彼女と離れたんだ。その間に、彼女は連中に撃たれてしまった……! 血だらけで……。僕はそいつらをみんな殺した。でも、その時、ブライアンも死んでしまった。ウサギさんに会わせてくれるって約束してたのに……」
そう言ってルビーは両手で顔を覆った。今にも泣き出しそうだった。が、彼は泣かずにその手を外すと医者を見て言った。
「僕ね、さっき彼のお墓に行ったんだよ。ギルが連れて行ったんだ。でも、彼は泣かなかった。僕は腹が立ったから、彼を滅茶苦茶に殴ってやった。でも、ギルは平気な顔してた」
そう言ってルビーは両手を握った。

「平気じゃないさ」
静かな声で医者が言う。
「どうして?」
「きっと今頃は心が痛くなっている筈さ」
「心が?」
しばらくそんな男の顔を見ていたが、不意に笑ってルビーは続けた。
「ふふ。医者ってのは面白い事言うんだね。僕はしょっちゅう胸が痛くなるけど、心は痛くないよ。それとも、僕の方が変なのかな?」
ルビーは頻りに自分の手をひらひらと振ったり光に翳したりして言った。
「僕にはわからないよ。だって、そうでしょう? 心は見えないし、どこにあるのかもわからないんだもの。身体の中にあるのか、身体の外にあるのか、そうでなければ空とか風とか花の蕾みにあるのかもしれないけれど、僕はそんなの持ち合わせていないし……」
「じゃあ、君は心で考えたり、感じたりしないのかい?」
「考えるのは頭の中にある脳神経の細胞で、感じるのは皮膚でしょう? 熱いとか冷たいとか痛いとか気持ちいいとか……特にこの指先はいろんな事、よく感じるよ」

「脳神経の細胞?」
医者が反復する。
「僕だって少しは勉強したんだよ。僕は他の人より、その細胞が少ないらしい。生まれた時、呼吸が止まって、その間に脳細胞が死んでしまったから……。でも、脳って普通の人でも全体の数パーセントしか使っていないんだって……。そして、死んでしまった細胞の代わりに、生き残った他の細胞が補う事がある。だから、僕も普通に歩けるし、喋る事も出来る。多分、他の細胞がお手伝いしてるから……」
「そうか。君はとても良く勉強してるね」
「ありがとう。医者から褒めてもらえるなんて思わなかったよ。医者はいつも、僕に酷い事ばかりするから……。そして、嘘つきだから……」
「私も君に嘘をついてると思うかい?」
医者は彼の瞳を覗き込むように訊いた。
「どうかな? それはよくわかんない。でも、僕は嘘をついてる」
ルビーはもぞもぞと身体を動かしながら言った。
「どんな嘘?」
「わかんない」
その時、機体が僅かに揺れた。

「何も見えなくなっちゃった」
窓を見つめてルビーが言った。外は灰色の雲に覆われていた。アナウンスが入った。飛行機は今、乱気流の中にいると言う。機体は震え、拉げた音を立てた。しばらく揺れが続くので安全のため、シートベルトを着用するようにと指示が出た。

「嘘つきだね」
ルビーが言った。そんな彼にシートベルトを付けてやりながら、バーテルは窓に映った彼を見つめた。一瞬、瞳が赤く光って見えた。が、機体が激しく揺れたため、医者は片手でシートを掴み、もう片方の手で彼を庇った。乗客の何人かが悲鳴を上げ、機内アナウンスと乗務員が、この機は安全ですと宣言し、落ち着いて下さいと繰り返し客を諭した。

「嘘つきだね」
ルビーはもう一度そう言った。
「空がこんなに怒ってる。きっとブライアンの死を嘆いているんだよ。空を愛した彼を殺した人間達を憎んでいるのかもしれない」
早口で彼は言った。それから両手で頭を抱える。
「こんなに怒ってる。きっとここにいるみんなを殺そうとしてるんだ!」
何人かの乗客がその言葉に反応してこちらを見た。
「本当だよ。僕は風の言葉が聞こえるんだ」
医者は彼の手を握るとその背を撫でて言った。
「大丈夫。風はそんなに意地悪じゃないよ。春には君にだってやさしくしてくれるだろう? あたたかくて気持ちのいい風が君の手や頬をそっと撫でて行く。そして、秋には涼しくて爽やかな風を吹かせる。時折、ハリケーンや竜巻のような強さも見せるけれど、それはずっと続く事はない。それらは皆、自然現象といわれているものなんだ。何も恐れる事はない」
「恐れてなんかいないよ。ただ、感じるんだ」
「感じる? 何を……?」
やさしく言う医者に彼は反論した。
「風は酷く怒ってる。そして、この飛行機を落とそうとしてる」
また、何人かの乗客が彼を睨んだ。医者は軽くそちらを見ると、片手を上げて左右に振った。この子は病気なのだと意思表示した。機体はまだ激しく揺れていたため、乗客達は自分の身の回りの方が気になってルビーを無視した。

「大丈夫だよ。飛行機はそう簡単に墜ちないように設計されているんだ」
医者は宥めるように彼の背中を摩って言った。
「先生もまだ死にたくないの?」
ルビーが訊いた。
「ああ。そうだね。まだ、やりたい事がたくさんあるから……。それに、私を待っている患者さんも大勢いる。私はその人達の病気が良くなるように協力してあげたいと願っている」
「病気? 僕も病気なのかな?」
「君がもし、今立っている場所とは違う場所に行きたいと願うのなら、私は協力する事が出来るかもしれない」
ルビーは自分の胸に手を当てて言った。
「そうだね。僕は少し願っているかもしれない」

「胸が痛いのなら、薬を出す事も出来るよ」
医者が言った。
「うん。確かに胸は痛いけど、薬では治らないんだ。だけど、僕はあなたを信じるよ」
「ほう。信じてくれるのかい?」
「うん。信じるよ」
その時、機体が急速に傾いた。高度が一気に落ちて行く。機内は悲鳴と怒号が飛び交い、手荷物の鞄が飛んだ。
「大丈夫だ」
医者はしっかりと彼の手を握っていた。
「そうだね。ブライアンは妹を飛行機事故で亡くしたんだって……。テロだったって……。だから、そんな悲劇が二度と起きないように、彼はテロ専門のスナイパーになったんだ。そうだね。彼は空が好きだって言ってた。パイロットになりたかったんだって……。彼は守ろうとしていた。飛行機を憎んでいた訳じゃない。一般の人達を憎んでいた訳じゃない。風を嫌ってた訳じゃないんだ」
そう言うとルビーは指輪をはめた手をそっと窓に翳した。
「そして、エレーゼだって、僕を憎んでた訳じゃない。ギルを憎んでた訳じゃない。風の行方を僕は知らない」
揺れは少し収まっていた。
「空港で友達が待ってるんだ。たくさんのものを失くしたけど、僕にもまだ、待っていてくれる人がいる。ねえ、ギルも待っていてくれるかな? 僕が帰って来るのを……」
「ああ。きっとね」
医者は握った手に力を込めて言った。
「じゃあ、今はまだやめておくよ」
そう言うとルビーは笑った。

機体は乱気流を抜けたとアナウンスが告げた。転がった鞄をルビーは拾って大事そうに抱えた。
「これはまだ、大事に持っている事にする」
そう言うとルビーはそっと鞄のファスナーを開いて中を覗いた。ほんの僅かしか開いていないので、中は暗くて何も見えない。
「そこには何が入っているの?」
医者が訊いた。ルビーはぎこちなく首を傾けて言った。
「僕という人形の心」